「誰が私を愛していたか」を、知らない

頭は、ボケて、

耳は遠く、

目は掠れ、

手足はギクシャク、

胃腸は、動かず、

心臓は、どっこいしょ!

 

「歳を重ねてゆく」と、

決まった様に、

皆同じ、症状が出る。

一人が不具合を、言うと、

私も私もと、右へ倣えである、

 

「性格と思考」だけは、

何故か、ますます頑なに成り、

時々、

「10代の頃」と、変わらない感覚に、

ビックリする。

 

だから、婆さんになっても、

70代、80代、

女三人よれば、少女の様に、

「姦しい」のである。

 

物食べながら、

喋りながら、

麻雀してる姿など、

「介護度ついた老人」とは、

思えぬほどの、はつらつさ!

 

「高齢者、お年寄り、ご老人」

と、呼ばれても、

年齢では分別できぬほど、

人、それぞれである。

 

若い頃、

人が止めても、止まらなかった私は、

今では、

「動いたら?なにかしたら?」と、

言われるほど、岩の様に動かない。

 

だんだん、衰えてゆく肉体に、

世の中の摂理と、

法則を感じながら、

ここまでこないと、

こんな身体にならないと、

「見えてこなかった真理」が、

面白いほど、見え出すのである。

 

「フェイクとファクト」が、

色をつけて、浮かんでる。

「人の心」は、知らない方が、

「物事の摂理」は、知らない方が、

「誰が私を愛していたか」を、知らない方が、

幸せだったかもしれないのである。

 

 

 

 

 

歳を重ねても「寛容な心」でありたい

春うらら、

「開け放した窓」から、

春色の風が吹き抜ける。

 

今日は、

なんだか、気持ちもすっきり、

「汚れのない、清き言葉」が、

すらすらと、流れるように、

聞こえてくる春日和である。

 

たとえ、

そんな爽やかな日でも、

唐突に、

「虫の居どころ」が、

悪くなる場合もある。

 

親しい者同士でも、

気分も違えば、思考も違い、

「脳の加減」も、

不愉快な状況にもなる。

 

元来、

二人の、「今日の思い」が、

行き違いになってしまうと、

「その場で解決」しようと、する人、

「その場を静か」に、流そうとする人、

両方ある。

 

しかし、

顔や態度に出てるので、

不愉快がバレてしまう。

「なんで?」と聞くと、

自分には興味のない話は

「しないでほしい」と、言われる。

「聞きたくない」と、言われる。

 

「楽しい1日の始まり」に

良かれと思った話題を、

提供したつもりが、

頷きもせず、無視する態度に、

気分も、悪い。

 

「聞きたくなかった」と、

言われた方は、

引っ込みもつかず、

恥をかいた形になり、

プライドが傷も付く。

 

あれほど、饒舌に話をしたが、

まるで、

石の如く、

「口も、心」も、閉ざしとしまう。

 

男性が、我慢強いのか、

女性の方が、プライドが高いのかは、

定かではないが、

「根幹を揺るがす」ほど、

二人の気持ちは、遠のいてゆく。

 

聞くのが嫌なら、

一人でいればいいし、

言われた方も、

どれがお気に召さないかはわからずに、

注意されたら気分も悪い。

 

同じ人間から、

発する言葉が、話が、

「良し悪し」になる関係なら、

元から、

気に入らん相手なのではと、

女性は、思うのである。

 

理屈抜きに、

「こりゃダメだ!」とすれば、

一緒にいても、

向上も無ければ、意味もない。

 

というような、

高齢者の話が、

最近よく聞くようになった。

「この頃、怒りっぽくなったね」

「この頃、すぐムカッとするのよ」

「この頃、我慢ができないのよ」

 

つまりは、

お互い、歳をとったと言う証であり、

何十年の

70歳を超えた人達の

別れ話の原因に、なる場合もある

歳を重ねても、

「寛容な心」では、ありたい。

二十話「天のおっちゃん」の神技

久しぶりの、

チーコさんとのおしゃべりに

「嬉しさと不安」が入り混じる。

 

教えた通りの道をこないので、

途中で、電話がかかる。

「家がない!」

無いわけないやん、

その道には存在しないからです。

 

まだ、

家が見つからないのは、

ましなほうで、

同じような家が並んでいるので、

仕方ないとは思うが、

「隣の家のリビング」に、

座っている可能性も、なきにしもあらず

 

いつも、

頭が、フラフラしているらしく、

歩く姿も、フーラフラ、

「妖精なのか、妖怪なのか」

定かではないが、

どちらにしても、

この世には、ふさわしくはない。

 

どうみても、

後期高齢者には見えず、

ポニーテールに、フレアスカートが、

定番で、

婆さんルックはした事ないのに、

「こけたり滑ったり」

典型的な、高齢者モデルである。

 

私は、

彼女とは正反対で、

道路を踏み締めて歩くので、

「後ろを振り返れば」

足跡が🐾ついている。

なーんてことはないが、

滑って、転んだことは一度もなしである。

 

と、いう似ても似つかない、

「二人が会うと」

奇怪な現象が、起こり出す。

「二人でいるのに」

☕️カップが、三つも出てくるのは、

何故?

 

「トイレの水が流れませーん!」

と、誰かの、叫び声が聞こえる。

なんだか変❓

何だかおかしい❓

誰かがいると、気づくと、

「犬は喜び、庭駆け回り、

猫はこたつで、丸く成る」

と、わけわからん歌を、口ずさむ。

 

二人は、

信仰心のない、クリスチャンであり、

神様の話は、自然に出てくるが、

敬虔な信者ではない、

 

しかし、

キリスト教的発想、思考はあるが、

組織の中に、入るのは

ご遠慮している。

 

それで、

奇跡のような出来家ごとや、

一瞬の救いは、

人間業だけでは出来ない、

神がかりを、信じている。

 

そっと、心の中で、

「天のおっちゃん」の神技に、

感謝を捧げる二人がいる。

 

 

 

 

「コンパクトな家」も良し悪し

最近の住宅は、

デザイン性を考えて、

「雨戸やシャッター」が、ない窓が多い。

 

「高級な建物」なら、

それなりの、

安全性のあるものを、使っているだろうが、

ただの「安普請の住宅」は、

不都合が多い。

 

災害、台風、津波

これらに直撃されたら、身も蓋もない。

ガラスの窓は、

割れるためにあるようだ。

 

また、

最近の「空き巣、泥棒」は、

人がいても、簡単に、

ドアやら窓を壊して、侵入、

下手したら、「命まで取ってゆく」

 

以前は、

「築70年の家」に住み、

風情はあったし、広かったが、

冬は寒いし、夏は涼しい、

しかし、地震が来たら、

「ぺったんこ!」

 

そんなこんなで、

「一人暮らしの小さな賃貸」に、

移り住んだら、

家事は楽だし、

夜のトイレ通いも、数十歩で、

間に合う便利さ。

 

独居老人には、

「コンパクトな家」も、良し悪し

便利さに満足はしていたが、

「自然の猛威」には、振り回される。

 

前置きが長くなったが、

今日みたいに、

夜中からの、暴風雨、

「落ち落ち」寝てられないほどの、

かましさ、

 

「窓に当たる」、狂風の音、

「屋根を突き抜けるような」、雨音、

「家ごと流されているような」、

水の流れる音に、

朝まで、眠れず、睡眠不足。

 

あの昨日の、

絵画のような、

「美しい桜は🌸」は、どこへ?」

この強風では、

到底、耐えられぬほどの、状況に、

見るのも怖い。

 

両極端で、どひょうしで、

唐突にやってくる、

前触れなしの、自然の脅威に、

「三日間は、助けにはいきません!」

と、言われたら、

 

歳が、

80だろうが、90だろうが、

「やらねばならぬ」と、ベットの中で、

構えてる。

 

 

凛と、佇む「一本桜」

「春よ来い、早く来い」

待ちくだびれたけど、

やっと来た、明るい「春」

 

必ず来るとは信じていたけど、

4月とは思えぬ、

「ど拍子の寒さ」に、半信半疑。

 

いつの年か忘れたけれど、

「花一輪も🌸ない」、枯れ木の下で、

花ならぬ、花より団子の、

屋台が並んだ、桜祭りがあったっけ!

自然は気まぐれ、

人間の思うようには、いかないのである。

 

それでも、

決して、裏切らず、

「春の風」が、桜前線を満開にした。

あの寒さの中で、

蕾すら見せなかった樹木に、

溢れんばかりの桜が、咲き誇る。

 

花の命は短くて、

「今日」、満開、

「今日」で、終わりの儚い命、

街の桜より、

「山桜を観にいこう!」と、

北へと、向かう。

 

予想通りの、

絵画のような桜並木の、「絶賛の風景」

まんまるおにぎり、ほうばりながら、

お酒ならぬ、

ペットボトルのお茶を、ぐい呑み

 

昔のように、

満開の桜の下を、陣取って、

ワイワイ、ガヤガヤ食べたり飲んだりは、

自粛傾向、

「焼肉の匂い」は、

花見には、不釣り合いである。

 

遠くで見ても、真下で見ても、

どちらになっても、

美しい、日本の桜、

 

終わりのない、

川辺に沿った桜並木を、

いつまでも、走り続けたら、

見知らぬ村の、ど真ん中、

 

山に、うっすら白い雪が、

残るほどに、冷たい風の中に、

凛と、たたずむ「一本桜」

神がかった山桜が、

「小さな村」を、守るように咲いていた。

 

 

人生の最後に「生きた証」が見えて来る。

大人は、直ぐに、

「それあかん」「あれあかん」と、

子どもや若者達に、否定する。

 

「それ良いやん」「素晴らしいやん」と、

最初から、肯定しない、

まだ、やってもみないうちから、

「無理やろ」「厳しいやろ」と、

自分を基準に、考える。

 

そして、

うまく行かず、失敗すると、

「やっぱり!」「いうてた通り!」

いくら、親でも、

野次馬根性やめといて!

 

高校生の頃、

アメリカに留学したいと、

父親に言ったら、

「毛唐」の国に、何しに行く!

と、信じられない差別言葉が、

返ってきた。

 

未来を夢見て、

自由な発想も、

親はどう思うだろうと、

最初から、「二の足」踏んで諦める。

 

もちろん、

我が子は大切であるが、

一人の人格を持った、人間である。

「親が指し示す道」は、何本もあるが、

 

良きことばかりも、言えないし、

悪しきことばかりも、嘘になる、

子供の方も、

「不幸せ」、になれば親のせい、

「幸せならば」、親ガチャ、ラッキー

 

長い人生の中には、

船の転覆あり、

飛行機の墜落あり、

今なら津波で、幸せが流される、

 

紆余曲折の道は、

数々あれど、

「どの道」を選ぶかではなく、

「どんな風に」道を、歩くかである。

 

「宝くじ」は、

当たらないと、思って買うが良し、

「勉強」しなければ、

国立大学には合格せず、

「富裕層」に、成るには、

なったことがないので、返答できず。

 

そんなことが、

人間の目的ではなく、

人生の最後に、

「生きた証」が、見えてきて、

はじめて、

どんな人生だったかと、わかるのである。

 

お父さん達には、「感謝の言葉」を

団塊の世代」の、

私たちの時代は、

大学を出たら、見合った企業に、

就職して、振り向きもせず、

定年退職を迎える、

「終身雇用」が、ほとんどであった。

 

辞める前に、

「ちょこっと」、役職を挙げてもらい、

「思ったより少ない」、退職金を頂き、

「人生の半分以上」を、

その会社に、身を投じ、

「家庭も顧みず」に、

企業戦士に、なった人もいる。

 

いちおう、

「ところてん式」で、歳を取れば、

自動的に押し出されて、

送別会と、花束もらって、

「さようなら」であるが、

 

今のご時世は、

そんな筋書きでは、生きてはいけず、

100年寿命まで、生きるとすれば、

あと、三、四十年の時間がある。

 

入社した時の貨幣価値も、

すっかり変わり、

失礼にも、「こんな端金!」で、

描いていた、「悠々自適の老後」など、

あろうはずがない。

 

家族からは、

「ご苦労さま」の一言もなく、

次なる就業場所を、探しに、

ハローワーク」に向かってる。

 

一応、名前の知れたる会社の

「名刺」

見せれば通用したこの顔も、

今では、てぶらで、通用もせず、

ただの、歳を重ねたおっさんである。

 

会社にいた頃は、

「部長!課長!」と、呼ばれて、

居場所はあったが、

今では、

「椅子もなければ座布団」もない、

仕事場を、紹介してはくれるが、

もはや身体は、「へとへと」である。

 

当時は、

「新地や銀座」で、

綺麗なお姉様方に囲まれて、

会社のお金で、飲みたい放題の、

幸せなお方も居ただろうが、

もはや、「夢のまた夢」となりにけり。

 

日本のサラリーマン人生の

悲哀を、噛み締めながら、

残された半生を、

どう生きるかを、考えているうちに、

「エンディング」がやってくる。

 

「会社」を辞める、

「学校」に行かない、

「結婚」しない、

「親」を看ない、

今では、

「自由の履き違えのような」

生き方も良しとされ、

誰も、咎めはしない時代になった。

 

60歳を越えると、見えてくる、

「本当の真実」

自分にとって一番大切な事は、

「なーに?」

色々あったけど、

走りぬいた、男の過酷な人生に、

「ご苦労さまでした」と、

いってあげたい。

 

どうあれ、

胸に金バッチつけて、

裏金をどこかに隠し、

何に使ったかも言わず、

堂々と、天井向いてる犯罪者の、

「政治家達」

 

そんな人たちとは比べものにならない、

世の中の、お父さん達には、

「感謝の言葉」を、送りたい。