芦屋の路地裏

芦屋川駅改札を出て、目の前に流れる芦屋川沿いをまっすぐ北に向かう。
遠く街並みではなく、どんつきには山並みしか見えない。
橋を渡り、L時型に右回転すると、大きな屋敷が立ち並ぶ静かなエリアに入る。
そびえ立つ塀の中に、どんな家があり、どんな人が住んでるかも見えない。
そんな住宅街に、何故、こんなところにこんな小さな雑貨屋?2坪ほどの店がある。
最後は、そこで左に曲がると、溜息の出る様な坂道が続いている。
自転車を立ち漕ぎしても、まずは無理な傾斜で
ハアハア息が切れた頃に私の家にたどり着くのである。
元家族と住んでいた実家である。
駅から、普通に歩いて7分、この7分間を姉は兄は妹は、同じ道を歩いていたが、それぞれが違う事を考えながら育ち、今がある。
心配性の母は、部活で遅くなる子供達がこの広い道を必ず通り、無事に帰ってくると願っていた様に思う。
何しろ、時代は昭和。
住みたい街あ、し、や、からは程遠い不便な街で、夕暮れ時でも暗く、月明かりと電柱の小さな豆電球が唯一の明かりであった。
母の期待を裏切って、私はこの道を通って帰らなかった。
実はもう一本の近道があり、地図上では駅から家まで斜めに走れば5分で家に到着する道。
密かに、泥棒横丁と名付けられていた路地裏である。
くねくねと蛇の様に曲がり、車も出会えば終わりの細い道を、怖さも伴い一気に駆け抜ける。
運動会で2位以下にならなかったのは、この訓練のおかげではある。
今は、人がよく通る道が安全と言われているが
あの頃は夜の路地裏で、人と会うことの方が恐怖であった。
しかし、その路地裏の道沿いの家々には、小さな窓から灯りが見えて、夕飯時には美味しそうな匂いがして、広い道にはない楽しみもあった
姉や兄や妹が、どの道を通っていたのかは今も聞いたことはないけれど、高齢になった私たちの今の姿からは想像できる気がする。
私は今も、整然と整理された表の道の裏に何があるのかを知りたい習性は直ってはいない。