高齢者の最期のあり方

「在宅で最期を迎える」
高齢者に対して、国や行政が、指針として打ち出してから数年が経つ。
介護保険制度が実施された頃は、色々な施設が建ち並び、自宅を処分してまで、入所を促進していた時期もある。
ところが、追いつかないほどの高齢者の数と、入所費用が高く、介護保険財源の問題もあり、
在宅介護に、大きく舵取りを切ったのである。
しかし、そうなると、訪問ヘルパーさんの不足もあり、地域に根ざして安心と安全の在宅介護も、嘘っぱちのようになり、満足な状況ではない。
「自宅で、畳の上で、家族に看取られて」
が、一番の幸せな最期のようなフレーズであるが、最近、「そうなんかなー?」と、疑問を抱くようになった。
確かに、人里離れた施設で、家族も寄り付かず、意地悪な介護員がいるような施設に入ろうものなら、毎日が地獄と想像する。
だから、住み慣れた我が家で、温かな家族に見守られて、残された人生大切は当たり前のように聞こえる。
まず、家族がいる場合は、「申し訳ない、迷惑かける」思いが死ぬまで続く。
独居だと、それはないが、夜になり体調が悪化したときは、不安と恐怖に苛まれる。
それなら、苦しくなったり、痛みがきたら、敏速に処置してくれる病院が、一番安心な場所になる。
結果死んでしまうことになっても、最善を尽くしてもらえる安堵の中で、息を引き取れる。
もがきながら、寒さの中を、何の手立てもなく死んでゆく自分を見つめながら、
「家族がいても、一人でも辛いかなー!」
と、思うようになってきた。
どこにいても、誰もいなくても、
「死ぬときは死ぬわ!」
と、思っていた若い頃と違って、心細く、すっかり気も弱くなってしまって、強がりも綺麗事も言えなくなっている。
「覚悟して、死を見つめながら、冷静に受け止める」
は、微塵もない。
心臓が止まるまでは、生きたい!と思う気持ちはあるだろうし、点滴の一本でも打ちながら、
のたうちまわる事なく、眠るように、静かに息を引き取りたいと願っている。
歳を重ね、社会の中からも存在はなくなり、家族からもお荷物の立場になって、あとはお迎えが来るのを待つだけと感じる日は、必ずやって来る。
人生の最期の場所くらい、自由に選べる制度であって欲しいと、望んでいる。